湯道百選

06
兵庫・有馬温泉

陶泉 御所坊

TOCEN GOSHOBOH

湯は、心の目を開かせる。

江戸前期の寛永年間、当時流行していた見立て番付に倣い、日本全国の温泉を格付けした「温泉番付」なるものが作成された。当時の相撲界に横綱は存在しなかったので最高位は大関となるのだが、東の大関は「草津温泉」、そして西の大関に君臨していたのが「有馬温泉」であった。豊臣秀吉も愛し、9回も湯治に訪れたという記録が残っている。その秀吉を偲んで建てられた浴室付きの茶室が「陶泉 御所坊」内に存在する。



その名も「偲豊庵(しほうあん)」。障子を開け放ち庭の冷気を招いて、和蝋燭の炎の揺らぎを見つめながら湯に浸かる。たちまち「幽玄」という言葉が降りてくる。幽玄とは、深く仄かな余情の美。そしてそれは日本文化の基層。耳に届くのは、茶室との境に設えられた水琴窟のかすかな音のみ。数多の情報が遮断され、自分本来の感性が研ぎ澄まされていくのが分かる。
 関西に移住し、有馬温泉の御所坊を定宿にしていた谷崎潤一郎は1933(昭和8)年に雑誌で発表した『陰翳礼讃』のなかで、「日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生まれている」と書いた。まだ電灯がなかった時代に培われた日本人の美の感性を懐古した随筆である。


この湯に浸かっていると、心の目が開いていくような気分になる。何もかもが目に見える時代。知りたいことがすぐに分かる時代。
 ちょうどこの「偲豊庵」で感じるような闇と蝋燭の灯りの曖昧な境くらいを心で見つめる目が必要なのかもしれない。

16世紀の有馬の情景を再現した「離れの茶室付き湯殿 偲豊庵(しほうあん)」。幽玄な空間を保つため、この浴場はあえて温泉ではなく、通常の湯を使用している。


Text by Kundo Koyama
Photographs by Alex Mouton

陶泉 御所坊