湯は、心を空にする。
これまで一度だけ、風呂の名前を付けたことがある。きっかけは、現存する国内最古の西洋式リゾートホテル「日光金谷ホテル」の創業者ひ孫にあたる故・井上槇子さん。当時、金谷ホテルの社長をつとめていた井上さんから「中禅寺金谷ホテルの古い温泉を露天風呂に改修するので新しい名前を付けてほしい」と頼まれた。いまから約20年前、自分の中にまだ湯道の湯の字もなかった頃である。
12kmも離れた奥日光の元湯から硫黄泉を引き込むも、湯は60℃の高温を保つ。それゆえ加水した上での掛け流し。ホテル本館の外観に合わせてロッジ風の佇まいにした温泉棟には、ガラス張りの内湯と、森の隙間から湖が見える露天風呂がある。初めて浸かったのは夜だった。白濁したトロトロの湯に身体を沈め「はぁ」と溜息をついて空を見上げたら、満天の星が輝いていた。その瞬間、名前は「そら風呂」しかないと思った。
ところが数日後、井上さんは「空ぶろ」と看板を発注した。狙いだったのか、間違えたのか、今となってはわからない。が、久しぶりに湯に浸かって確信した。
絶妙な加減の湯に肩まで浸かり、穏やかな風と遊ぶ森に耳をすます。空を流れる白い雲をぼぉっと眺めていると、心の中でもつれていた時間の糸が解けていくのがわかる。いつの間にか、心の中は空っぽになっていた。この湯の価値となる空は「そら」のみならず「から」であり「くう」なのだ。心を癒やすここの力を、井上さんはあの時すでに見抜いていたのかもしれない。
Text by Kundo Koyama
Photographs by Alex Mouton
中禅寺 金谷ホテル
- 〒321-1661 栃木県日光市中宮祠2482
- TEL : 0288-54-0007
- URL : https://www.kanayahotel.co.jp/ckh/
- 営業時間
・ご宿泊のお客様 5:30〜9:30、13:00〜24:00
・立ち寄りでご利用の場合 13:00〜15:00
入浴料
・ご宿泊のお客様 無料
・立ち寄りでご利用の場合 大人/¥1,300 小学生/¥600
宿泊料
¥34,418〜(2名1室利用時、1泊2食付)
JR日光駅からクルマで30分、標高1271mの場所にある中禅寺湖。明治時代には、外国人に人気の避暑地だった。中禅寺金谷ホテルは1940(昭和15)年に創業。現在の建物は力ナダ人建築家が手がけ1992(平成4)年に完成したもの。伝統のフランス料理と温泉が同時に楽しめる。